Das bißchen Totschlag – Die Goldenen Zitronen / ディー・ゴールドネン・ツィトローネン 和訳

Das bißchen Totschlag – Die Goldenen Zitronen / ディー・ゴールドネン・ツィトローネン の和訳。再統一後にドイツ経済は悪化し、難民が急激に増加したことから、極右派が移民住宅に火炎瓶を投げ入れるなどの襲撃事件が相次いだ。それを見て「自分は移民じゃないから大丈夫」と考える人々もいた。

MV

Das bißchen Totschlag – Die Goldenen Zitronen 和訳

非常に、極めて、残念かつ遺憾であります、すると突然
彼らは人数をカウントして、17人が死亡したと結論づけた
それくらいで十分だろう、と
そう、これが法治国家の厳しさなんだよ
その通りだね、彼らはマトモな部類の外人で
君や僕と同じように、メルンの納税者だったんだ
近隣住人は証言できる、「ハイル・ヒトラー」が聞こえたと
そして、今週末最初の死亡者は記載されなかった
いわゆるオートノミストが、誇り高きドイツ人に刺され
ベルリンの中心にあるプラットホームで、血を流して死亡したんだ
でも、彼は敵対するギャングの一味だったわけで

数人が殺されたところで、僕らが死ぬことはない
このチーズの穴が全部飛び出していくわけでもないだろ、と夫は言った
気楽に行こう、ほら、過去にはもっと悲惨なことがあったじゃないか
そんな簡単に、この古い汽船が壊れることはないよ

厳密に言うと、以前からも度々懸念することがあった
例えば、1992年11月8日のベルリン
6万人が「人間の尊厳」を掲げていた
最高の指導者たちとともに
そう、懸念したんだ、意図せず暴力体験コースを受けてしまったから
ナチス? そんなものだな、慈善活動家を自称するオートノミスト
ちょっとした外国人嫌悪というものを感じたよ
同じ恐怖を味わったんだ、あの飛び回るもののせいで ー いや、火炎瓶とかじゃなくて
卵のことだよ、だって半端ない量だもん
しかし彼らは勇敢にも、それらに対して頭を下げることはなかった
どんな群衆に対しても
そしてもちろん、暴力主義者に対しても、寄生虫に対しても
その、なんて言うか、流れに乗らないように
でも後者については、翌日、あまり大声で言うことはなかった
実は…みたいな口調で、彼らは団結して
あの法律を施行したのさ

数人が殺されたところで、僕らが死ぬことはない
このチーズの穴が全部飛び出していくわけでもないだろ、と夫は言った
気楽に行こう、ほら、過去にはもっと悲惨なことがあったじゃないか
そんな簡単に、この古い汽船が壊れることはないよ

そう、先に言った通り、彼らはカウントし始めたんだ
そしてドイツチームに衝撃が走る
仕方ないね、くだらない話はどんどん膨らんで
惑星ドイツの外へ行ってしまった
だから「フェアリーライトを詰めて、小さな妹を連れて行って」とか言ってる場合じゃない
この美しいクリスマスシーズンに、憎悪に対して沈黙を
我々が示しをつけねばならない ー いや、ここでは誰も仲間外れじゃない
この光を奪い合うことはなく、どんな場所でも全員が輝くさ
憎悪と連合軍の爆撃に対して
ラビメル、ラバメル、ラブム
それなら、と肩を叩いて、握手をして
そして公式見解となった、全員が同じ悪夢を見てただけなんだね
そうだよ、だって他の場所よりマシじゃん
ガッデム、ラバメル、ラブム

数人が殺されたところで、僕らが死ぬことはない
このチーズの穴が全部飛び出していくわけでもないだろ、と夫は言った
気楽に行こう、ほら、過去にはもっと悲惨なことがあったじゃないか
そんな簡単に、この古い汽船が壊れることはないよ

数人が殺されたところで、僕らが死ぬことはない、と夫は言った
もうこんな戯言を聞くのは十分だ、と夫は言った
大丈夫、ほら、過去にはもっと悲惨なことがあったじゃないか
そして僕はこう言った「そろそろ本題に入ろうよ」
そうだね!

注釈 / 解説

まずは歌詞に関連する出来事の時系列を掲載する。前述の通り、不景気と難民の顕著な増加 (90年:19万人→91年:25万人→92年:43万人)が重なったことで外国人へのヘイトが集まったという背景がある。

  • 1991年9月17日-23日、ホイエルスヴェルダ暴動。ネオナチのグループによる、主にベトナム系の露天商を狙った暴動。難民の住むアパートに石や火炎瓶が投げ込まれるなどして、32人が負傷した。
  • 1992年8月22日-24日、ロストック・リヒテンハーゲン暴動。約2000人の極右派が集まり、金属バットや火炎瓶を持って移民住宅を次々と襲撃した事件。幸いにも死者は出なかったが、100人以上の警官が負傷している。
  • 1992年11月8日排外暴力に対するベルリンデモ。ロストックの暴動を受けて行われた排外暴力に反対するデモ。「人間の尊厳は不可侵である」をモットーに、当時のヴァイツゼッカ―大統領やコール首相などの政治指導者が先頭に立って行進した。
  • 1992年11月21日、シルヴィオ・マイヤー殺害事件。東ドイツ出身の人権活動家であったシルヴィオ・マイヤーは、ベルリンにあるザマリターシュトラーセ駅でネオナチのグループと鉢合わせした際に、胸を数回刺されたうえ、頭を殴られて死亡した。
  • 1992年11月23日、メルン放火殺人事件。トルコ人家族が住む2件の住宅が放火された。一家の大黒柱であった51歳の女性と10歳の孫娘、14歳の従兄弟の3人が死亡、その他9人が重体となった。犯人は消防に電話を掛けて「~の家が燃えています。ハイル・ヒトラー!」と匿名の連絡をしていた。
  • 1992年12月6日、庇護妥協成立。難民申請の条件が厳しくなる。
  • 1993年5月28日、ゾーリンゲン放火殺人事件。ネオナチ・スキンヘッドに属する4人の若者が、トルコ人大家族が住むゾーリンゲンの住宅に放火した。18歳、12歳、8歳、4歳の少女が焼死した。さらに27歳の女性が窓から飛び降りて死亡したが、彼女が抱きかかえていた4歳の娘は無事だった。他に6ヶ月の乳児を含む14人が負傷した。

以上を踏まえて歌詞を読み解いていく。冒頭では政府が発表した死者数が超適当だという批判がなされている。事実、ホイエルスヴェルダの一件があったにもかかわらず、ロストック大暴動が起きるまで政府や警察は何の対策もしていなかった。批判を受けてから大急ぎで出した統計の数字はあまりにも少ない。「納税しているまともな外国人が殺害された」と強調するのは、まるで働いていない外国人であれば殺していいとでも言いたげで、その厳しい審査基準によって「外国人嫌悪犯罪であるか」どうかが厳正に判断された数字なのだろう。実際シルヴィオ・マイヤーの件は、ただの不良のケンカとして処理されたのだった。

コーラスには3つの曲の歌詞が引用されている。タイトルにも使われているヨハナ・フォン・コッチアンの「Das bißchen Haushalt … sagt mein Mann」。ニュアンス的には「あのラクな家事…と夫は言った」という社会風刺の曲。そしてゴットリープ・ヴェンダハルスの「Polonäse Blankenese」、トラック・ストップの「Take It Easy, altes Haus」。コーラスはカップルの会話形式で、おそらくブルジョワである彼らは、自分たちに危害が及ぶかどうかを考えて「心配することはない」と言っている。ネオナチが狙うのは難民や左翼などの特定グループだけだからだ。そして世界大戦を引き合いに出して、重大な事態ではないと判断するのだ。

2番目のバースはベルリンのデモのことが書かれている。そこで政府官僚らは左翼グループから卵を投げつけられる。その理由は、難民の人権を守るというデモを行っている裏で「庇護妥協(難民申請を困難にする憲法案)」を通そうとする動きがあったからだ (一ヶ月後に通った)。しかし彼らの中では、右翼も左翼も同じように暴力的なモブで、卵を投げつけることは火炎瓶を投げつけることと同等だと思っているようだ。

そして最後のバースでは、国外でも悪評が広まってしまったこの難民問題は「他と比べればマシ」ということで合意に至る。そしてやたら陽気な子どもの歌の歌詞が引用される。「小さな妹を連れて行って…」の部分はコーネリア・フレーベスの「Pack die Badehose ein」からの引用。「フェアリーライト」はクリスマスなどで使われる小さなライトが多数繋がった電飾なのだが、ここで言うのは、デモをする人々がそれぞれライトを持ってフェアリーライトのように並ぶ「Lichterkette」のことを指している。そして「Ich geh mit meiner Laterne」もよく知られるドイツの童謡で、ランタンを持って「みんなで輝こう」「ラビメル、ラバメル、ラブム」という呪文(?)で締めくくられる歌。この曲の場合は、最後に嘆きの呪文に変わっている。

歌詞 / Original Lyrics