Keine Macht für Niemand – Ton Steine Scherben / トン・シュタイネ・シャーベン 和訳

Keine Macht für NiemandTon Steine Scherben / トン・シュタイネ・シャーベン の和訳。アナキスト組織「6月2日運動 (Bewegung 2. Juni)」のために書き下ろされた曲だが、結局使われることはなかった。

6月2日運動とは

結成

1971年12月4日、学生運動に参加していたゲオルク・フォン・ラウヒ (Georg von Rauch) が警察ともみ合いになり銃殺される。この事件をきっかけに左翼組織がベルリンに集まり、1972年1月に「6月2日運動」という組織が結成された。

組織名は、ベンノ・オーネゾルク (Benno Ohnesorg) 銃殺事件に由来している。1967年6月2日に西ベルリンで行われたデモ中に、大学生のオーネゾルクがベルリン警官のカール=ハインツ・クラス (Karl-Heinz Kurras) に銃殺されたのである。この事件がきっかけで学生運動が過激になっていった。

ペーター・ロレンツ誘拐事件

ペーター・ロレンツ (Peter Lorenz) は、西ベルリン市長の候補者だった。しかし選挙の3日前である1975年2月24日に“6月2日運動”によって彼は誘拐された。

翌日、ドイツ通信社に6月2日運動からブラックメールが届く。彼らは監獄されているメンバーとドイツ赤軍のメンバー合わせて6人の解放を求めた。メッセージと共に入っていたポロライド写真には「Gefangener der Bewegung 2. Juni (6月2日運動の囚人)」と書かれたポスターを持ったロレンツの姿が映っていた。

ドイツ政府は要求に応じたが、ホルスト・マーラー (Horst Mahler) だけは条件を飲まなかったため、残りの5人と牧師のハインリヒ・アルベルツ (Heinrich Albertz) をボーイング707に搭乗させ、イエメン人民民主共和国の首都であったアメンで解放した。ロレンツも3月4日に解放された。市長選挙に関しては、社会自由主義派のクラウス・シュッツ (Klaus Schütz) の続投が決まった。

そして解放された囚人たちは再びテロ活動や殺人を犯すようになり、ドイツ政府は要求に応じたことを後悔したのである。

解散

1980年6月2日、「6月2日運動」はドイツ赤軍に統合されることが発表された。これは、1977年に起きたドイツの秋以降、メンバー内で反帝国主義派とポピュリズム派に分かれるようになり、関係性に亀裂が生じたためである。

Keine Macht für Niemand – Ton Steine Scherben 和訳

オリジナル🔗Genius

自由になれない 俺には選択することしかできない
どの泥棒に盗まれるか どの殺人者に命じられるかを
何千回も血を流した そして俺の存在は忘れられるんだ
何千回も飢餓に襲われた でもアイツらは腹いっぱいだ

南でも 西でも 東でも 北でも
殺しに来るヤツらはいつも決まってる
どの町でも どの国でも
すべての壁にスローガンを書け
誰にも力はない!
誰にも力はない!

俺らを隔てる あの壁を壊そう*1
みんな集まれ お互いを知ろうじゃないか
お前は隣にいるヤツと変わりない
人を支配する権利のあるヤツなんていない

南でも 西でも 東でも 北でも
ブラックメールを送るヤツらはいつも決まってる
どの町でも どの国でも
我らの戦いのスローガンがある
誰にも力はない!
誰にも力はない!

兄さん、来いよ 列に並べ
姉さん、来いよ お前はひとりじゃない
母さん、来いよ 俺らは味方だ
父さん、来いよ 俺らが欲しいものは同じだ

アウクスブルクでも ミュンヘンでも フランクフルトでも ザールブリュッケンでも
俺らを抑えつける奴らはいつも決まってる
どの町でも どの国でも
拳を握れ

誰にも力はない! 誰にも力はない!
誰にも力はない! 誰にも力はない!
誰にも力はない! 誰にも力はない!


注釈

*1 ベルリンの壁崩壊の前に書かれた曲である。